No.38

文章ヒーヒロ

写本

本編軸ヒーヒロ(薄味)
ビンケットの館でのやりとり妄想。


どこか陰鬱な空気を纏う館に到着した時には既に日も傾き、応対してくれた執事は対価も求めず部屋を使って構わないと言った。
一人であればこのような怪しげな館に泊まりはしなかったと思う。だが今は旅慣れていない女性の同行者がいる以上、可能な限り快適な寝床を用意してあげたい。特にここ数日は野宿続きだったし……という気持ちから執事の言葉に甘える事を決めた。

「今日はかなり歩いたけど疲れてないかい?」
「大丈夫よ。ずっと歩き旅だったから慣れているわ」
「そう? なら良いけど無理はしないでね」
「はぁい」

屋敷全体を覆う陰鬱さを吹き飛ばすかの如く明るい声色のヒロインに毒気を抜かれ、ヒーローは苦笑を返す。

案内された部屋には寝台が二つ。
部屋に通された瞬間、しどろもどろに絶対に近寄らないから安心して欲しいと伝えると不思議そうな顔をされてしまった。知識が無いのか、自分を男として認識していないのか判断が付かない。
部屋を分けられるのが理想ではあったが、既に厚意に甘えている以上そこまでの要求は出来ず今に至る。

「お食事までご馳走してくれるなんて、このお屋敷の御主人は親切な方なのね。とても美味しかったわ」

ぽすんと軽い音を立て寝台に腰を下ろし、提供された食事に思いを馳せる姿を見ていると自分が警戒し過ぎているだけのように思え、ヒーローは小さく息を吐く。

つい先日まで奴隷という身分だったヒーローからすれば、トップルの安宿で出された質素な食事でさえ豪華で美味に思えた。目の前にヒロインが居た手前、こみ上げてくる涙を抑えるのに必死だったくらいだ。
だからこそ訝しんでしまう。ただの旅人に部屋を無償で提供し、それどころか質の良い食事まで振る舞う理由は何だろうかと。

しかしヒロインの様子を見ていると、これまでの環境の所為で人の善意というものに懐疑的になりすぎているだけなのかもしれない。
ウェンデルまではまだそれなりに距離もある。他人を疑ったところで何も始まらないし、充分に休める時に休んでおくべきだ。ご丁寧に寝間着まで用意してくれている事だし使わせて貰おうと鎧を脱ぎ、鎖帷子も脱ぎかけたところで──手が止まった。

「……あー。あの、さ」
「?」
「申し訳ないんだけど、少しだけ向こうを見ていて貰えないかな」
「良いけれど、どうしたの?」
「着替えたくて」
「うん」
「見られてるとちょっと脱ぎにくいと言うか……恥ずかしいと言うか……」
「え……あっ! ごめんなさい!!」

指摘を受けたヒロインは慌てた様子で華奢な身体ごと向きを反転させる。
その動作から一拍遅れてふわりと寝台に着地する金糸に、ヒーローは昔絵本で見た妖精の女王を思い出した。

「わ、わ、私ったら何て事を。本当にごめんなさい……! ハシムと旅してる時と同じ感覚で居てしまって……」

異性の着替え──身体をまじまじと見るのがはしたない行為だと思わなった事にヒロインは顔面を紅く染め上げる。
隠れ里には同年代の異性が居なかった事もあり、ここまでヒーローの事を男性として特段意識していなかった。
里を発つ前に乳母から「近付いてくる男には気を付けなさい」と言い含められていたし、その理由も知識としては理解していたが遠い世界の話としてしか認識していなかった。特にヒーローはハシムの頼みを聞き入れて同行してくれている。それを異性として警戒するべき相手と見做す事は失礼にも思えた。
だがそれでもヒーローは比較的年齢の近い異性である。彼の言動や人となりを考えると警戒する必要性はやはり分からなかったが、だからと言って堂々と身体を見て良いものではない。

「あうううぅ」
「ご、ごめん、違うんだ、いや違わないけど、そこまで気にする事じゃないから!」

両手で頬を覆って蹲るヒロインの後ろ姿にヒーローは慌てて訂正を試みるが、正直何と言えば正解なのかが分からなかった。

「君が悪いんじゃなくて、その……見てもあんまり気持ちの良いものじゃないかと思って……」

奴隷として闘う中で負った数多の傷痕はヒーローの身体に確と刻まれている。こんな身体を他人に、それも一片の穢れも無さそうな少女に見せる事には妙な罪悪感があった。ただそれだけで、責めたかったわけではない。

「……俺、最近までマトモとは言えない場所に居たからさ。ごめんよ、こんな事を言って」
「そんなっ──……いいえ、何でもないわ」
「う、うん……?」

背後から聞こえるバツの悪そうな声色に、ヒロインの胸は締め付けられる。
成り行きで同行しているが、ヒロインはヒーローの事情を殆ど知らない。自分自身が事情を詳しく説明できないくせに他人の事情へ踏み込む事は憚られたし、ヒーロー自身も多くは語ろうとしないのだからとあえて有耶無耶のままにしていた。その方がウェンデルまでお互い気持ち良く過ごせると思ったから。

──でも。

鎖帷子が胸元まで捲り上げられた時に見えた傷痕が頭から離れない。

どうして見ず知らずの私を助けてくれたの。
どうして困ったように笑うの。
どうして眠ると魘されるの。
どうしてそんなに沢山の傷を負ったの。

気になる事は尽きないが、それを訊くわけにはいかない。
ヒロインの両手がまだ熱を帯びた頰から離れ、胸元に在るペンダントをぎゅうと握る。足元から少し視線を上げると、サイドボード横に置かれた小さな革製の手荷物が目に入った。

『これを持っていきなさい』

ハシムとウェンデルを目指すよう長老から言いつけられた時に手渡された書物の写し。身につけているペンダントがあれば身の証にはなるが、万が一疑われる事があればその写し──ケアルの書を見せれば良いと言われた事を思い出す。
この魔法は里にのみ伝わるもの。原典は持ち出せないが、その写しでも充分に出自の証明足り得ると持たされた。
幼少期からケアルを使いこなしていたヒロインにはその価値が分からなかったが、ヒーローの身体にあれだけの傷痕が残っているのは怪我をした時、癒しの魔法が無かったせいかもしれない。

──これがあれば。

書物の入った皮袋にそっと手を伸ばす。
里を発ってから初めて取り出した書物は多少草臥れてはいたが、文面に問題は無さそうだった。
ウェンデルに到着すればお別れだ。その後、自分自身もヒーローもどうするのかはまだ分からない。彼の事を詳しく知っているわけではない。けれどきっと彼はまた何処かで誰かの為に傷を負う事もあるのだろう。
とても、優しい人だから。

私にはペンダントがあるのだから、この写しが無くてもきっと大丈夫。それよりも何の関わりも無かった私を助けて、守ってくれている彼が何処かで怪我をして苦しまなくても済むように。

額に書物を当て心の中で長老に勝手をしてごめんなさい、と謝罪してから振り返る。

「ねえ、ヒーローさん」
「え? 何だい?」

視線を外している間に着替え終わり、寝台を整えていたヒーローのきょとんとした表情に口元が綻んだ。時折見せる少し幼い表情から善良さを感じずにはいられない。
そんな彼にしてあげられる事は多くないからこそ、せめてこれくらいはさせて欲しいのだとヒロインは真っ直ぐにヒーローを見て、告げる事を決めた。

「──私の治療の魔法、貴方の今後の旅に必要になると思うの」

sen
2026.1.10 投稿

戻る